広島平和記念日 ~3分間で読める感動する話~

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本日は広島平和記念日です。

この日だからこそ読んでいただきたい。

~THINK TIME~です。 

 1945年8月6日。

 その日、
 広島の女学校へ通っていた13歳の
 笹森恵子さんは被爆されました。

 全身大やけどを負いながら奇跡的に
 助かった笹森さんは、何かに導かれる
 ようにアメリカに渡り、自立の道を
 歩んできました。

 その壮絶な体験と、そこから湧き上がる
 平和への思いをお話いただいた
 エピソードをお送りします。

 69回目の「原爆の日」を迎えた本日。
 平和について考えるきっかけにして
 いただければ幸いです。

 

 1945年8月6日朝。
 私は13歳。広島の女学生でした。

 その日、
 私たちは学徒動員に駆り出され、
 学校の外で作業に取り組んでいました。
 見上げた真澄の空に銀色の飛行機と
 白い飛行機雲が見えました。
 クラスメイトのとしちゃんに

「見てごらん、きれいよ!」

 と指を差した時、
 飛行機から白いものが落ちていくのが
 見えました。
 

 どれだけ時間が過ぎたのでしょう。

 意識が甦って、叩きつけられた
 地面から顔をもたげました。
 とても静かでした。
 なぎ倒されて焼けこげた、
 見たこともない世界が、
 音もなく広がっていました。
 
 そばには友人と見定めがたいほどに
 黒こげになった死骸が転がっています。 
 黒く煤けた幾人もの人が、
 服ばかりかはがれた皮膚まで引きずり、
 血に染まった裸同然の姿で、
 漂うように歩いています。

 それは私自身の姿でもあったのですが、
 それに気づくこともありませんでした。
 私は人々が漂っていく方向に
 歩き出しました。

・ ・ ・ ・ ・ ・

 意識がはっきりした時、
 私は蚊帳の中に横たわっていました。
 家は、母屋は焼けましたが、
 別棟が残っていたのです。
 
 行方の知れない私を、
 家族はどんなに心配したことか。
 だが、近隣の世話役だった父は残った
 玄関で、千田町1丁目の住人に
 戦災証明書を書く仕事がありました。

 原爆で何もかもなくなってしまった
 人々にとって、汽車に無料で乗ったり、
 医者の診察を受けたりするために、
 それが唯一の証明書だったのです。
 とても手が離せません。
 もっぱら母が市内のあらゆる場所を
 巡って私を探したといいます。

 原爆投下から5日後、証明書を書いて
 もらいにきた人から、小学校の講堂に
「家は千田町1丁目と言っている子が
 いる」と聞き、もしやと思い、ようやく
 私を探し当てたそうです。
 記憶にはありませんが、
 誰かに自分の住所を告げていた
 のでしょう。
 
 私は顔から喉、全身の4分の1が
 丸こげでタドンのようでした。
 しかし薬などはありません。
 父が黒こげの皮をハサミで切り取ると
 下にたまった膿を母が食用油でふきとり
 ました。それだけが治療でした。

 傷が少しずつ治まるにつれ、
 痛みに呻(うめ)くようになって
 いったのです。母の配慮から、家には
 鏡が置かれなくなりました。
 それを不思議とも思わずに過ごして
 きましたが、ある時、庭に出ると
 鏡の破片が落ちていました。

 それを覗き込んだ時に映った顔――。
 眉毛もない、睫毛(まつげ)もない、
 肉が盛り上がってピンク色した肌、
 上下とも反り返った唇、そして短く
 刈られた頭……。
 それが自分の顔だと気づいた時、
 私は氷水を掛けられたように身震い
 しました。
 
 あの時の心境は、ショック、という
 言葉しか思いつきません。しかし、
 私はそれを受け入れるよりほか
 ありませんでした。
 もちろん、葛藤もありました。しかし、
 私の周りにはいつもさりげなく、
 しかし深い深い愛情で支えてくれた
 両親やきょうだいがいました。
 
 自分が子供を持ち、親となって、初めて
 あの時の両親の思いを知りました。
 もし、わが息子が同じ目に遭ったらと
 考えると、どれほど耐え難いか。

 自分が代わってやりたい。
 それが無理なら何としても元の姿に
 戻してやりたい。
 きっと両親はそんな思いで過ごして
 いたのでしょう。しかし、何も言わず、
 ただ静かに私を見守り、
 支えてくれました。

・ ・ ・ ・ ・ ・

 私は被爆体験者として、ありのままを
 語り続けてきました。

 近年は各国の核の情勢からその活動が
 増えており、2007年には日系4世
 の映画監督スティーブン・オカザキ氏の
『White Light Black Rain
(白い光、黒い雨)』にも出演しました。

 この作品は冒頭、日本の若者に
「1945年の8月6日は何が起こった
 日か知っているか?」
 という質問を投げかけます。

「分からない、歴史に弱いので」
「もしかして地震?」

 私が体験した65年前の地獄絵図
 のような出来事は、もはやいまの日本
 では忘れ去られようとしている。
 その事実に呆然とするばかりでした。

 しかし、一方で私の体験談を聞いた
 若者たちは、皆必ず何かを感じ取り、
 戦争のない社会、核兵器のない社会を
 つくろうと目を輝かせてくれます。
 いい社会にしたい、平和な社会を
 築きたいという思いは本当は誰にでも
 あるのです。

 しかし、その芽はいまはまだ固い土に
 覆われています。
 その土を取り払い、大きく育つよう
 心を耕すために私は語り続けなければ
 ならないと思うのです。
 
 仮にもし、私が原爆に遭わず、
 大やけどをしていなかったら、
 いくら「平和」と訴えても
 人の心には響かないでしょう。
 そう思うと、
 やはりすべては神の摂理だったと
 思わざるを得ません。

 あの日、一緒にいた友達のほとんどは
 亡くなりました。薬もなく、飲まず
 食わずで横たわっていた5日間。

 生きていたこと自体が奇跡でした。
 アメリカに渡ることも私が切望したこと
 ではなく、呼びかけに応じてここまで
 やってきた。その道程を思うと、
 私には与えられた使命があるのだ、
 と思わずにはいられません。

・ ・ ・ ・ ・ ・
 
 1人で平和は実現できませんが、
 誰かが動かなければ多くの人を
 動かすことはできない。
 そのために私はいつも若者にこんな
 メッセージを送っています。
 
 素晴らしい人生を送り、
 素晴らしい社会をつくっていくのに
 必要なものは3つある。

 それは勇気と行動と愛情です。
 
 勇気と行動だけでは、
 戦争に結びついてしまうことがある。
 
 行動と愛情だけでは、物事を変革する
 のに怖じ気づいてしまうことがある。
 
 勇気と愛情だけでは、きれいごとを
 言うだけで終わってしまうことがある。
 
 この3つが揃って、
 初めて物事を成していくことができる
 でしょう、と。
 
 私にとって平和な社会を実現する
 ことは、いつの日か叶えたいという
 夢や希望ではなく、必ず成し遂げる
 ミッションです。

 私と触れ合った人たちが自分の中に
 眠っていた平和への思いを目覚めさせて
 いくことを願い、きょうも1つひとつの
 出会いに心をこめていきたいと思って
 います。

………………………………………………

「真の平和へ向けて歩み続ける」

 笹森恵子(ささもり しげこ)
(米国在住被爆者) 
 
『致知』2010年8月号
 特集「思いをこめる」より

出典元:致知出版社

 

戦争について考えることが

平和について考えることにつながり、

全世界が平和へと歩みを進めますことを願います。

考えさせられる記事ですね。

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